第2回 審査員特別賞作品
「沈黙の繊維について医学生として考えること」

The Essay Award

受賞者:三海 ひな

 

 ハンガリーで医学生として暮らしながら、地元の病院で学生ボランティアとして活動している。慣れない言語に戸惑いながらも、患者の表情や呼吸、ちょっとした動作から読み取れることが増えてきた。言葉を超えた医療の現場に触れるたび、「診断名の向こう側」にある人生に目を向けることの大切さを実感している。

 ある日、私は高齢の男性患者に付き添う機会を得た。ベッドの上で彼は静かに咳を繰り返し、痩せた体を少しずつ震わせていた。酸素マスクの奥で絞り出すように「ありがとう」とつぶやく声が印象的だった。カルテに記されていた診断名は「悪性中皮腫」。私はその病名に目が留まった瞬間、日本で何度も聞いた「アスベスト」の記憶がよみがえった。呼吸を媒介として体を蝕むその繊維が、まさかこの異国の地でも、いま目の前の命に影を落としているとは思ってもいなかった。

 ハンガリーでは1960年代から1980年代にかけて、建設資材としてアスベストが広く使われていた。学校、病院、公共住宅。私が通う大学の古い校舎も例外ではないかもしれない。EU加盟に伴い2005年に使用は禁止されたが、老朽化した建物は今も残っており、その撤去作業にあたる労働者たちは、十分な防護がなされていないことも多いと聞く。つまり、アスベストは過去の遺物ではなく、現在進行形の問題なのだ。

 その患者は、かつて工場で働いていたと語った。経済成長を支える一労働者として、与えられた仕事をこなす日々の中で、知らず知らずのうちに繊維を吸い込んでいたのだろう。何十年もの時を経て、ようやく症状として現れ、そして命に関わる病として突きつけられる。私は彼の咳を聞きながら、医学の授業で学んだ中皮腫の進行や予後の厳しさを思い出していた。しかしそれ以上に胸に迫ってきたのは、「何も知らずに吸い込んでしまった」という重さと、「もっと早く誰かが守れたのではないか」という悔しさだった。私は幼い頃から喘息とアレルギーに悩まされてきた。季節の変わり目には咳が止まらず、呼吸が浅くなるたびに不安が胸を締めつけた。吸入器やアレルギー薬は、私のかばんに常に入っていた。だからこそ、あの患者の咳が他人事には思えなかった。呼吸が苦しいということ、それが日常のささやかな行動――歩くこと、話すこと、笑うこと――をどれほど奪うのか、私は身をもって知っている。そして、私の苦しみが「一時的」で「対処可能」なものであることを考えると、アスベストによって慢性的な疾患を抱えた人々がどれほどの絶望を抱えているか、その深さに思いが至る。自分の息を意識するたび、私は「この息が誰かにとっては終わりの始まりかもしれない」という感覚に向き合わざるを得なかった。それは、医師を志す者として、病だけでなく、その周囲にある人生や社会を診ることの重要性を教えてくれた。

 医学部の講義では、細胞変異のメカニズムや最新の治療法について、日々くり返し学んでいる。どの薬剤がどの受容体に作用するか、何秒で何%が代謝されるか――それらは確かに重要な知識だ。けれども、あの病室で咳をしていた男性の姿を思い出すとき、私が問わずにはいられなかったのは、「なぜこの人が、今ここで苦しんでいるのか」という問いだった。

 アスベストは、かつて「夢の素材」と呼ばれた。耐熱性・耐久性に優れ、経済成長を支える建材として各国で推奨されていた。その導入を決めたのは、一部の専門家や政策決定者たちだった。利益や効率を優先する中で、目の前の便利さが、何十年も先の命を奪うことになるとは、多くの人が想像しなかったのかもしれない。だが、想像しなかったことの責任を、誰が背負うのだろうか。その「選択の結果」が、あの男性の苦しみなのだとしたら、科学と政策の関係をもっと深く問い直す必要があると感じた。

 病とは、単に細胞が変化した結果ではない。社会が選び、放置してきた構造の帰結でもある。医療とは「治療の提供」にとどまらず、「なぜその人がその病に至ったのか」という問いに応答する営みでもあるはずだ。もし医師が「病だけを診る」存在であれば、こうした構造的な問題は見過ごされてしまうだろう。だが私は、患者の訴えの背景にある社会や歴史にこそ目を向ける医師でありたい。診断名を告げるその口で、「あなたの命は、社会の選択の結果として傷つけられた」と伝える責任を、自覚して生きていきたいと思う。

 アスベストによる被害は、遠い国の話ではない。私が育った日本にも、アスベストに苦しむ人々が数多くいる。建設現場や造船所、学校やビルの解体に携わった人々――彼らは、当時としては当たり前だった職場環境の中で、静かに繊維を吸い込み続けた。自分の命を削る作業だとは知らず、家族のために働いていた。その結果として、中皮腫や肺がんを患い、時には最愛の人を残して世を去っていく。

 私は、日本でそのような人々の声に耳を傾ける活動をしている支援団体の記録を読んだことがある。「なぜもっと早く教えてくれなかったのか」「父の命は、こんな形で終わるべきではなかった」――そこには、悔しさとやり場のない怒り、そして静かな悲しみがあふれていた。そして、遺された家族がその体験を語り継ごうとする姿に、私は胸を打たれた。

 ハンガリーで出会った患者の咳が、日本の家族たちの声と重なった。「もう誰にも、こんな思いをさせたくない」。その願いが、国境を越えて私の中に根を下ろしていった。私は将来、世界の現場で得た視点を日本に持ち帰りたいと思っている。そして、ただ医学知識を振りかざすのではなく、「一人ひとりにとっての命の意味」に寄り添いながら診療する医師でありたい。過去に傷ついた命の声を、未来に向けて希望へと変えていく、そんな医療のかたちを信じている。

 私は将来、世界で学んだ視点をもって、日本で医療に携わりたいと考えている。国境を越えて問題がつながる時代において、医療もまた、国や制度の枠を超えて人々の命と向き合うべきものだと思うからだ。ハンガリーで出会った患者の咳、日本の被害者家族の声、そして私自身の呼吸器疾患の経験――それらはすべて私の中でつながっている。だからこそ、私は「診察室の中」だけに閉じこもらない医師でありたい。目の前の患者の不調を和らげるだけでなく、その人が歩んできた道に敬意を払い、見過ごされがちな社会の傷を言葉にする役割を担いたい。医療が社会と切り離されるものであってはならないと信じているし、むしろ医療は、社会の中に生まれる矛盾や不条理に最も敏感でなければならないとも思っている。私にできることは小さいかもしれない。けれど、たった一人の患者に寄り添うことで、ほんの少しだけ希望の光をともすことができると信じている。

 命を救うということは、ただ病を治すことではない。過去の痛みに耳を傾け、その声を受け継ぎ、次に同じ苦しみが繰り返されないよう、社会に問いを投げかけることもまた、医療の大切な役割だと私は思う。

 あの日、病室で私の手を握りながら咳をしていた男性は、最後にこう言った。「来てくれて、ありがとう。誰かに見ていてもらえるだけで、うれしいんだよ」と。私は、その言葉を一生忘れないだろう。

 いつか日本で、同じように孤独や痛みの中にある人に寄り添える医師になりたい。そして、見えない痛みに目を凝らし、小さな希望を灯す医療を実現していきたい。たとえそれが微かな光でも、それが誰かの「明日」につながるのなら、私はその手を握り続けていたい。