The Essay Award
受賞者:西村 英紀
私は診療放射線技師として、これまで二十数年間、病院の現場に立ち続けている。検査室という限られた空間で、一般撮影や透視、CT、MRといった検査を通して、患者の身体の内側を見つめてきた。日々の業務は、時に淡々と、時に緊張感の連続で、ただ確実に、正確に検査を行うことが求められる。しかし、今もなお、はっきりと胸に焼き付いている出来事がある。私がこの仕事を始めたばかりの新人時代。何もかもが「教科書通り」で、すべてが「正しい手順」で動くべきだと信じていた頃。あの一件が、私の中の「患者を見る目」を根底から変えた。
私が勤めていたのは、福岡県の筑豊地域にある病院だった。かつて炭鉱の町として栄えたこの地域では、炭鉱労働に従事していた高齢の方々が多く、粉塵による肺の病気――炭鉱夫塵肺症などの診断を受けた患者さんが、当時少なからず通院していた。
その日、入院病棟から胸部CTの検査で呼ばれた一人の高齢男性がいた。扉を開けた瞬間、私の目に映ったのは、やせ細った体と、無精ひげをたくわえた険しい顔つきの人だった。言葉少なで、どこか警戒心を帯びた表情。“咳・息切れ・呼吸困難”——オーダーにはそんな言葉が並んでいた。息をするたびに胸が大きく波打ち、酸素を取り込むために全身を使っているのが一目でわかる。それでも、彼は弱音を一言も吐かず、黙って検査室へと足を運んでくれた。
「こんにちは。胸のCTを撮らせていただきますね」
私は先輩に教えられた通りの口調で話しかけ、丁寧に検査の説明を始めた。声は震えていなかったと思う。しかし、頭の中は手順と注意点でぎっしり詰まり、彼の苦しさに目を向ける余裕などなかった。
検査開始前、私はいつもの定型文を口にした。
「合図が入りますので、“息を大きく吸って、止めてください”。止めたままでお願いします。撮影が終わったら“楽にしてください”と合図がありますので、それまで頑張ってくださいね」
それが、正しいやり方だと信じていた。でも、彼はその通りには呼吸を止められなかった。息を吸い込んだかと思うと、すぐに吐き出してしまう。何度も画像がブレて、検査が進まない。私は焦っていた。
「すみません、もう一度いきますね。今度は、しっかり息を止めてください」
語気が強くなったのかもしれない。その瞬間だった。彼が検査台の上で体を起こし、肩で息をしながら怒鳴り声を上げた。
「きさんはな……ワシがどげん苦しかか、なんちわかっちょらんやろうが!!」
今でも一言一句、声のトーンすら鮮明にビジュアルとともに覚えている。そして、その言葉は、雷のように私の胸を貫いた。怒声というより、叫びだった。全身から汗が噴き出し、瞳に浮かんだ涙をこらえるように睨みつけるその姿に、私はただ立ち尽くすしかなかった。慌てて先輩技師が検査室に入ってきて、事態を収拾してくれた。先輩の対応でなんとか検査は完了したが、私は検査後もしばらく動くことができなかった。「なぜ怒鳴られたのか」「何がいけなかったのか」――そんな戸惑いだけが、胸に残った。
しかし後日、検査画像を確認するために彼のカルテを開いたとき、私はハッとした。その患者さんは、若い頃から長期間、炭鉱で働き続けていた。粉塵にさらされ、炭鉱夫塵肺症を発症。さらに、アスベストの曝露歴も記載されていた。CT画像には、肺全体に広がる線維化の影。空気を吸い込むための柔軟さを完全に失い、呼吸のたびに肺が悲鳴を上げているのが、そこには映っていた。俗にいう“陸で溺れる”状態だったのだろう。にもかかわらず、検査のたび、懸命に息を吸い込み、止めようとしていたのだ。苦しみに耐えながら。それを私は、「ちゃんと止めてください」と、冷たく突き放していたのだ。
「教科書にも、マニュアルにも、息止めが必要とある。しかし、それが本当にできる状態かどうか、ちゃんと見ていただろうか?」
そう自問して、私は情けなくなった。
後日、彼の担当看護師から話を聞いた。
「あの人、検査から戻ってきて、少し反省しとったよ。『あの若い技師に、きつく言いすぎたかもしれん。でも、少しはワシのこと、わかってくれたら嬉しか』って言いよったよ」
その言葉を聞いて、私は思わず涙が出そうになった。怒鳴られたことよりも、その後に残った彼の言葉が、胸に沁み、救われた気がした。しかし、彼が次の検査に現れることはなかった。病状が急速に悪化し、数日後亡くなったというのだ。私は、あの日の声を、最後の「生の証」として心に刻んだ。あの出来事以来、私は検査のたびに、患者の息遣いに耳を澄ませるようになった。モニターに映る肺の陰影、輪郭以上に、その一呼吸に込められた想いを感じ取ろうと努めている。たった十秒に満たない息止め。それでも、患者にとっては命を削るような時間なのかもしれないのだ。
今、私はベテラン技師として、若い後輩たちの育成にも携わっている。新卒で入職するもの、学生実習でやって来る未来の仲間たち。立場も経験も異なる彼らと向き合いながら、私が一番大切にしているのは、技術を“教える”ことよりも、姿勢を“伝える”ことだ。私たち診療放射線技師は、患者の体の内側を映し出す“画像”を扱う仕事である。しかし、扱う対象が“画像”であることに慣れすぎると、目の前の患者を“人”として見る意識が薄れてしまう危うさもある。マニュアル通りに説明し、手順通りに機械を操作し、定められた条件で撮影する。その正確さこそが我々の技術であり、責任であり、誇りであることに違いはない。しかし、その正しさに“心”が伴わなければ、患者にとってはただの無機質な流れ作業でしかない。私は、20数年前のあの出来事を通じて、それを痛烈に学んだ。だからこそ、後輩たちにも必ず私の体験談を伝えるようにしている。
「“ちゃんと息を止めて”って言うのは簡単。でもね、その“ちゃんと”がどれだけ苦しいことか、想像してみてほしい。人には、止めたくても止められない呼吸がある。無理をしても、もう酸素が入らない体があるんだ」
言葉にするたび、当時の彼の表情が脳裏に浮かぶ。肺が硬くなり、呼吸のたびに胸全体が痛むほど上下していた。たとえ苦しくても、私たちの指示に応えようとしてくれていたその姿。その努力さえ、私は見逃していた。
私の話を聞く後輩たちは、真剣な眼差しで耳を傾けてくれる。多くは、まだ「被ばくを減らすにはどう撮ればよいか」「画像のノイズをどう抑えるか」といったテクニカルなことに気を取られがちだ。しかし、私の話の後には、患者への声かけが少し変わる。ある後輩は、ふとこう言った。
「息を止めるって、こんなに苦しいことなんですね。初めて知りました。今まで、“止めてもらうこと”が当たり前だと思ってました」
その一言が、私には何よりもうれしかった。
やがて彼らは、検査前に患者と少し雑談を交えるようになった。緊張をほぐすように「最近どうですか」と声をかけたり、息を整える時間をしっかり確保して「ゆっくりで大丈夫です」と優しく言葉を添えたりするようになった。技術は後からでも磨ける。しかし、患者の心に寄り添う姿勢は、経験の積み重ねのなかで育てていくしかない。そして、その芽が確かに育ち始めていることを、私は現場のあちこちで感じている。
炭鉱やアスベストの被害は、今や過去のものとして語られることが多くなった。学校でも、テレビでも、もうそれを知らない世代が主流になってきた。しかし、炭鉱の町で育ち、働いていた私は知っている。かつて地中深くへと命を賭して降りていった男たちがいたことを。粉塵まみれの坑道の中で、家族のために働き続けた人たちがいたことを。
アスベストの存在も、長らく無視されてきた。防音・断熱に優れた“奇跡の鉱物”と呼ばれたその素材が、どれだけ多くの人の命を蝕んできたか。潜伏期間が長いために、因果関係を証明するのも困難で、救済を求める声が置き去りにされてきた歴史がある。
それでも、私たち医療従事者が、目の前の患者の苦しみに向き合うことをやめない限り、その痛みは“忘れられた記憶”にはならない。過去の出来事として風化させるのではなく、今も続いている“現実”として捉えること。私たちには、その責任がある。
今日も私は検査室に立つ。何百人、何千人と検査してきたこの空間に、また一人、新しい患者さんがやってくる。ただの“作業”として検査を進めることは簡単だ。だが、もしかするとその人は、かつての彼のように、人生のすべてを背負って来院しているかもしれない。痛みを抱え、不安を抱え、勇気を振り絞って検査室の扉を開いたのかもしれない。
その人の一呼吸に、私はちゃんと寄り添えているだろうか――そう、自分に問い続けながら。
一呼吸。それは、ただの生理的な動作ではない。肺をふくらませるだけのことではない。そこには、生きる意志が込められている。どんなに苦しくても、命が最後まで続けようとする祈りのようなリズム。その尊さを知ってしまったからこそ、私は今日もこの場所で、一人一人に“寄り添う検査”を実践していきたいと思う。