2009年ホットライン、相談者の声

Voices 2009

1) 兄弟で支えあって認定

 悪性胸膜中皮腫を発症されて治療中のAさんは、東京都内の空調配管メーカーに長年勤務されていました。ご自身の几帳面な性格から、過去の現場の様子が記録されていたのでアスベストセンターとしては何もお手伝いする必要がありませんでした。
 実は、Aさんの弟さんも中皮腫を発症して労災認定されています。申請にあたり、ご兄弟で空調設備の仕事をしていたことのみならず、その後の弟さんの経歴まで詳しく覚えておられたことが役に立ちました。
 Aさんの申請も同じ監督署でしたので、以前弟さんの為に用意した兄弟共通の現場情報などをそのまま再提出しただけで済んでしまいました。
 残念ながら弟さんは既に亡くなられていますが、その分、Aさんには一日でも長く穏やかな日々が続くように願わずにはいられません。

2) じっくり思い出して認定

 大手の製鉄関係の工場で長く勤められていたBさんも胸膜中皮腫の患者さんです。お仕事は典型的なアスベストばく露である溶接作業や設備配管の断熱材交換などには一切無関係でしたので、当時の作業を逐一説明していただくことにしました。
 30年ほど前のことですが、ご自身の作業場や仕事内容は詳しく覚えておいででしたが、肝心のアスベストは全く見当がつきませんでした。そこで、何人もの同僚にお手紙を出し続けてみました。いくつか返事が来たなかで、実際に石綿パッキンを扱った事や怪しいほこりの存在が浮かび上がってきました。
 さらに、幸運なことに当時の工場の写真が見つかり、当時のイメージが湧き上がって来ました。どうやらBさんの脇でパッキン交換がされていて、Bさん自身も照明器具の石綿断熱材のほこりを掃除していたことを思い出されました。
 ご相談後、手紙の返事があるまでの数ヶ月はBさんにとって忍耐の時期でしたが、その後は喜々として工場内の設備をお描きになっていました。仲間の方に助けられたことも要因ですが、何よりも体調が安定されていたのでじっくり取り組めたのが良かったと思います。

3) 空襲プラス石綿禍

 戦前から石綿代替製品である岩綿とガラス繊維をつくっていた工場の女工CさんとDさん。お二人とも戦時中につとめ、Cさんは石綿肺で、Dさんは中皮腫で亡くなりました。
 Cさんは生前東京の監督署から、戦時中でよくわからないから、環境省の救済給付を申請するようにと言われ、労災申請を取り下げさせられていました。当時救済給付の指定疾病に石綿肺は入っていませんから、監督署の指示は不親切きわまりません。ついでに言うと、公害審査会(救済給付の審査請求)からも棄却されました。
 Dさんのお姉さんも同じ工場の女工で、岩綿や石綿が軍需物資なので、米軍にめざとく空爆され、沢山の女工が亡くなり、本当にこわかったと証言してくれました。
 また、ある早大教授(多発性骨髄腫で死去)が夜間の学生だった頃、この会社につとめ、粉じんまみれだったことなどの記録も監督署に提出し、お二人とも(Dさんは、本省協議ののち)労災認定されました。

4) カルテと写真で認定

 脳の疾患で10年近く通院していたEさん。実は当時のレントゲンには胸膜の肥厚が確認されてカルテに明記してありました。当然、命に直結する脳の治療が優先され、呼吸器への治療は行われませんでした。
 その後、次第に肺機能が低下して3年前に亡くなられましたが、胸膜の肥厚が脳裏にあり、アスベストばく露をご本人から耳にしていた主治医の勧めで剖検が行われました。その結果、死因はびまん性胸膜肥厚と結論されました。
 申請の際に、剖検時の写真と10年分のカルテを提出しました。署の方も、これだけ材料が揃っていれば調査しやすい、とのことでした。
 その一番の原因は、主治医が常にアスベストばく露を気にしていたことです。また、病院が電子カルテを導入し、過去の記録もパソコンに打ち直して整理してあったので第三者が読んでもアスベスト疾患であろうと予測するのが容易であったことによりました。
 治療実績が無かったので遺族補償のみの申請をし、7ヵ月後の3月に無事認定されました。